2012年 01月 26日
『性と愛の日本語講座』を読んだ
元旦の地震による「積ん読山」崩壊で、下の方から発掘されたのが標題の書。時間の押した朝に、何の気なしに持って出て読みだしました。
内容的にはなかなか充実していたと思います。
例えば「恋人」と「愛人」。現在普通に我々が使っている意味からすると、前者は婚姻関係にはない親しい男女で、後者は結婚している男性とと肉体関係にある、妻以外の女性、ということになりますね。著者によれば、それぞれの言葉がそれぞれの意味で定着するのは1960年頃の話だそうです。たとえば「恋人」というのは「人を恋する者」という意味だったし、「愛人」は今で言うところの「恋人」をさす言葉だったそうです。もっと古くは西郷隆盛が座右の銘にしていた「敬天愛人」のように「人類一般への愛情」を表す言葉だったそうです。変われば変わるもんですね。
著者は様々な文献から例を引いて、現在の意味に使われるようになった時期を特定する、ということを試みています。
例えば、男女の二人連れをさす言葉は、アベック→カップルと来て、ちょっと前まではツーショットという言い方をしてましたね。最近は独特のイントネーションで発音されるカレシにカノジョでしょうか。
言葉というのも、先鋭的な表現者によって新鮮な用例で用いられるようになり、そしてそれが「定番」として定着し広く使われるようになり、やがて陳腐化して新しい表現に取って代わられる、という「生涯」を送るようですね。しかもややこしいことに、30年くらい経つと、昔の表現の方が却って新鮮だ、などということで復権したりもする。ちょっと前に流行った表現というのが一番古くさくてダサく感じますね。この辺の心理はなにも性や愛に関する言葉だけではなく、あらゆる分野に共通なものではありますが…。
まあ、でも今更セックスのことをまぐわいと言ったり、番うと言ったりはしないでしょうね。よほど強烈な使い方をする作家でも現れれば別ですが…。でも現実を凌駕するような鮮烈な表現をする人ってのはなかなか出て来ないでしょう。そういう意味では先日「不機嫌会見」が話題になった田中慎弥氏の文章には多いに興味を惹かれますね。
by lemgmnsc-bara
| 2012-01-26 22:22
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